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「ぐるっとまわろう沼津城」に参加 [歴史]

 高尾山古墳のイベントで知り合ったハカセさん主宰の「ぷらタコり」。
その「ぐるっとまわろう沼津城」に参加してきた。

 沼津城については、中1の時に自由研究で調べたことがある。
だが当時は歴史の知識も乏しく、大したものではなかった。

 今回は歴史というより城域をまわるという感じだった。
それでも中1の時の断片的な記憶が甦ったりして、楽しかった。
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 明治維新の時期に藩ではなかったこともあり、城を残す動きはなかった。
しかも大正年間の二度の大火災の後に大規模な復興がなされた。
これにより、城の遺構はほぼ完全に失われたようだ。

 もし今も残っていたら、どんな町づくりになっていただろう。
それだけに、高尾山古墳は何としても有効活用してほしいものだ。

仏教 [歴史]

 今日は近所の葬式の手伝いに駆り出された。
葬式で感じるのは、江戸幕府の宗教政策の見事さだ。

 日本の仏教は非常にパワフルだった。
もっとも、日本の仏教に限った訳ではないのだが…。

 信者を獲得するための様々な工夫。
その自信からくる他宗派への攻撃。
他宗派のみならず、政治権力ともしばしば衝突した。

 宗教的権威に対し、政治権力は手出しができなかった。
初めてそれを実行したのが織田信長だった
信長は宗教勢力の武力を徹底的に排除した。

 勘違いされがちだが、信長は宗教弾圧はしていない。
比叡山延暦寺の焼き討ちや一向一揆の弾圧は有名だ。
だが、天台宗や一向宗を禁止してはいない。
日蓮宗に対しても、安土宗論で排他的な部分は禁止した。
だが、日蓮宗の布教を禁止してはいない。

 そして秀吉の刀狩。
宗教勢力の武力を奪った。

 仕上げの江戸幕府は、寺院を役所化した。
寺院にとって信者は、獲得するものではなくなった。
努力しなくても、最初から割り当てられているのである。
仕上げが鞭ではなく、飴なのが見事だ。

噂の東京マガジン [歴史]

 先週の火曜日に高尾山古墳で何かがあるとの連絡を受けた。
休みの日だったので、行ってみた。
TBSのロケで、笑福亭笑瓶が来ていて驚いた。

 そして今日がその放映日だった。
13:00放送の「噂の東京マガジン」。
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 13:02に友人からLINEが入った。
「テレビ出てるじゃん」
時間的に早すぎないか?
外出先だったので、帰宅してから確認。
たった一言なのに、OPで使われ、本編でも流れていた。
別の友人からもFacebookのMessengerに確認があった。

 内容は、保存派と道路派の意見を公平に採り上げたものだった。
確かに、道路派の意見もわかるのだが…。
代償があまりに大きすぎるだろう。
それにこの道路ができて、本当に渋滞は解消されるのだろうか。
国道一号線の渋滞が解消されない限り、結局抜け道になるのでは…。
何とか八方丸くおさめる方法はないものか。

「高尾山古墳を知ろう!」に行ってきた! [歴史]

 昨日開催された「高尾山古墳を知ろう!」に行ってきた。
HPを見た限りでは、申込者は17/200名となっていた。
実際は220名以上が参加したようだ。
電話等での申込みは反映していなかったのか。
早めに行ったので、駐車場は問題なかった。
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 静岡大学の篠原和大教授が
1・高尾山古墳はどんな古墳か
2・高尾山古墳が造られたのはどのような時代か
3・高尾山古墳にはどのような価値があるのか―なぜ保存なのか
について講演した。

 話の中で、登呂遺跡は数年前の再調査で新たな発見があったそうだ。
技術も発達するだろうから、当然あり得るだろう。
壊してしまったら、そんな機会は永遠に失われてしまう。

 質疑応答で一人の老人が話した。
小さい頃から高尾山の祭に行っていた。
その高尾山にこんな古墳があったなんて、感動だ。
それが壊されたら、本当に情けない。
まさに同感だ。

 署名活動が始まった。
職場や友人、町内に呼びかけて集めている。
これをご覧の方も、よろしければ是非ご協力ください。
署名用紙はこちらからダウンロードをお願いします。
  ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
https://takaosankofun.wordpress.com/syomei/

「本能寺の変 431年目の真実」 [歴史]

 明智光秀の子孫である明智憲三郎氏の「本能寺の変 431年目の真実」。
ようやく読破することができた。
前に買ってはいたのだが、読まないままになっていた。
電子書籍化されていたのを見つけたので、ようやく読み始めた。
読み始めたら一気に読んでしまった。

-ここから先はネタバレなので、自分で読みたい人は注意して下さい。-

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 動機は信長の新政権構想とその先にある大陸進出に対する一族の将来への不安。
引き金になったのは長宗我部征伐。

 本能寺の変自体は、信長がプロデュースした家康謀殺計画だった。
信長は家康とその重臣を本能寺に招き、光秀に襲わせる。
それを受けて細川忠興と筒井順慶が指揮官を失った徳川領に侵攻する。
武田家の滅亡で織徳同盟の意義はなくなったのだ。

 だが光秀はこの家康謀殺計画を信長謀殺計画にすり替えた。
信長自身が謀殺計画の段取りをしてくれたのだ。
光秀にとっては信長を討つ千載一遇の好機である。
光秀は家康・細川藤孝と共謀し、計画を実行した。

 信長は家康を油断させるために敢えて無防備で本能寺にいる。
光秀は当初の計画よりも数時間早く本能寺を襲撃すればいい。
家康は信忠を殺してから急遽帰国し、甲斐・信濃の織田領を制圧し、光秀と合流する。

 この作戦にも大きな計算違いが生じた。
一つは家康の甲斐・信濃簒奪に時間がかかり、光秀との合流が遅れたこと。
もう一つは明智の下風に立つことを嫌った藤孝が秀吉に計画を漏らしたことだ。
そのため、秀吉は光秀の予想より遥かに早く帰京した。

 結局光秀は滅び、秀吉・家康・藤孝の共謀で真実は隠蔽された。
家康が討つはずだった信忠が京都にいて、光秀に討たれたことも幸いした。
家康が信忠を殺していたら、隠蔽は不可能だっただろう

 かなり大雑把に書いたので、疑問点も多々あると思う。
実際に読んでもらえれば、納得してもらえると思う。

 自分としての疑問点は一つ。
計画を知った秀吉はどこまで考えたのだろうか。
秀吉が信長の後継者になれたのは、信長・信忠が死んだからだけではない。
三法師が生き延びたことが必要不可欠のはずだ。
筋目を主張して三法師を立て、信雄を利用して信孝を抹殺できた。
この計画だけで、そこまで見通すことは不可能ではないか。
とりあえず織田家での優位な立場を確保するだけというのなら問題はないのだが。

織田信長の誕生日 [歴史]

 5月12日は織田信長の誕生日と言われている。
天正10年5月12日には盛大な生誕祭を開催したそうだ。

 信長は日付にこだわっていたそうだ。
安土城に入城したのも自分の誕生日に合わせている。
比叡山延暦寺を焼き討ちしたのも、石山本願寺に攻撃を仕掛けられた9月12日だ。
だが、こういう事実はあまり知られていない。

 一番大きな理由は、日付の表記の仕方にあると思う。
これらの日付は、すべて旧暦のものなのである。
西暦を導入した1873年より前は、すべて西暦に換算してあるのだ。
「今日は何の日」というアプリやサイトがある。
その日付にどんな事件があったり、誰の誕生日や忌日だったりがわかる。
これらもすべて西暦の日付になっているのだ。

 換算してあった方がピンと来る場合もある。
例えば、長篠合戦は天正3年5月21日。
西暦では1575年6月29日になる。
鉄砲を活用するために梅雨明けを待ったというのは、西暦の方がピンと来る。
だがこれは、注釈に西暦の日付を載せれば済むことだ。
むしろデメリットの方が多い。

 坂本龍馬の誕生日は1836年1月3日、忌日は1867年12月10日になっている。
これでは龍馬が自分の誕生日に暗殺されたというのがわからない。

 もっと極端は例は武田信玄だ。
信玄は元亀3年12月22日の三方原の戦いで徳川家康を破った。
だがその後発病し、翌元亀4年4月12日に信州駒場で没した。

 これを西暦で表すとどうなるか。
1573年1月25日に三方原の戦い、同年5月13日死去なのだ。
本来年明けを挟んでいるのに、同年の出来事になってしまうのだ。
感覚が狂ってしまうと感じるのは私だけではあるまい。

 歴史上、日付にこだわるということはよくある。
微妙な年代の違いには注釈が必要ではある。
だが基本は旧暦の日付もそのままで行ってほしい。

高天神城に行って来た! [歴史]

 4月30日、前々から行きたかった高天神城にやっと行くことができた。
行く途中に雨がパラついたが、着いてからは全く問題ナシ。
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 武田家滅亡の引き金となった高天神城。
徳川家康に攻められ、武田勝頼に援軍を要請した。
だが、武田家は御館の乱の関係で北条家を敵に回してしまった。
そのため、勝頼は北条氏政を警戒し、援軍を出せなかった。
結果、高天神城は落城した。

 この落城の影響は大きかった。
武田家についていても、守ってもらえない。
武田家への信頼は地に落ちた。
翌年、諸将の離反もあって武田家は滅亡した。
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 30日は平日だったので、遠足の地元小学生が大勢いた。
「こんにちは」の応酬がいつもの仕事のようだった。
搦手門から行くと、階段は結構キツかった。
追手門から入って搦手門に出ると楽なのかな。
山頂からの景色はなかなか楽しめた。
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中国大返し [歴史]

 先週の「軍師官兵衛」ではまさかの展開。
官兵衛が安国寺恵瓊に信長の死を打ち明けた!
一体どうなるのかと思った。
しかし、よくよく考えると大した影響はないのでは。

 従来では、秀吉側は信長の死を隠して講和交渉を行った。
領地の割譲は譲歩するが、清水宗治の切腹を断固主張。
毛利側では宗治の切腹は断固拒否する。
安国寺恵瓊は単独で宗治と交渉し、切腹を承諾させる。
これにて講和成立→中国大返しへ。

 要するに、一般的には恵瓊の行動は「欺されて」のものだった。
それが「秀吉側(官兵衛)と共謀して」に変わるだけなのだろう。
毛利側には「自分も欺された」と言うのかもしれない。
結局のところ、大勢に影響はないということか。
でも、欺して交渉した方が官兵衛のスゴさが伝わると思うのだが…。

本能寺の変 [歴史]

 今度の「軍師官兵衛」はいよいよ「本能寺の変」。
週刊誌に載っていた「本能寺の変」の真相。
根本にあるのは信長の「唐入り」に対する不安感。
天下が統一されれば、もう戦いは終わりだと思っていた。
それがまだ続くのかという絶望感が蔓延していたという。

 だが、本当にそうか?
戦国武将の感覚を履き違えていないか?
これは秀吉の唐入りにも言えることだが、武将にとって「戦争が終わる」ということは、出世の道が閉ざされるということだ。
信長軍は兵農分離しているから、終戦=失業を意味する。
だから戦いが終わることへの不安はあっても、続くことへの不安はあり得ない。
秀吉の唐入りは失敗したので、武将はみんな反対だったように言っているが、実際には大乗り気だった可能性が高い。

 そして黒幕は秀吉という話に。
確かに、一番得をしたのは信長の後継者となって天下を統一した秀吉だ。
当然一番怪しい。
中国大返しができたのも、事前の情報があればこそというのも納得できる。

 しかし、秀吉が信長の後継者になれたのは、信長だけでなく、信忠も死に、尚且つ信忠の子・三法師は生き残るというかなり奇跡的な状況があったからではなかったか。
しかも、妙覚寺にいた信忠は本能寺に向かったが、諦めて二条御所に立て籠もって死んだ。
つまり、死んだのは信忠の判断ミスで、その気になれば脱出することができたのだ。
だから、何者かが信長に取って代わろうとしたという考え方はあてはまらないと思う。

 ま、そう簡単に答えは出ないから、未だに謎なのだが。
イタコにでも聞ければいいのだけど。

平成25年 [歴史]

Kinkaku.jpg 新しい年が明けた。
西暦2013年、平成25年だ。
25年まで続いた年号は平安時代の「延暦」と南北朝時代の「正平」があるが、延暦は23年と273日、正平は23年と229日。
1月1日の時点で平成は23年と359日だから、すでに両方抜いて、歴代第4位の長さになった。
ここ数年では天文の24年、延喜の23年と1年刻みだったが、第3位の応永は35年続き、期間としては33年と341日。
抜くのにあと10年かかる。

 ちなみに応永年間には、足利義満が大内義弘を滅ぼした応永の乱、義満による金閣造営と勘合貿易の開始、朝鮮国が倭寇の報復として対馬を侵略した応永の外寇と、歴史の教科書に出てくる重要事項が目白押しだ。
平成25年には何が起こるのだろうか。
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